黙示録20章4節には「わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。」とあります。
しかし、十二使徒全員が首をはねられて殉教したわけではないですし、霊的な意味合いがある側面を今回は少し考察します。
首と頭の聖書的な意味
箴言 3:3 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び心の中の板に書き記すがよい。
雅歌 4:4 首はみごとに積み上げられたダビデの塔。 千の盾、勇士の小盾が掛けられている。
コリント第一 11:3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
エフェソス 5:23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
これらの聖句から、首は慈しみと誠といった信頼の証であり、頭は正当な権威であることがわかります。聖書中ではくびきをかけるとか外すと等の表現も散見されますし、首は頭へつながる生命線であり、従属関係における信頼の証です。
それで、必ずしも首を文字通りはねられていない十二弟子も存在することからも、黙示録が何を言わんとしているのか頭をひねりながら考察する必要があります。
日本語では「キミはクビだ!」と表現される通り、首をはねるとは集団から排斥忌避されて霊的に殺害されることを暗示します。ですから、その首をはねるという表現はある集団との信頼関係が終わることを霊的に意味しています。つまり、真のキリスト者は大多数の偽クリスチャンなるメガチャーチ(ゲマトリアでも666)から、信頼されず所属することも許されず教える立場を奪われて霊的に殺害されることを比喩的に示唆していると読み取れるのです。